建築にわくわくするということ.個人的に.
自分たちの頭の中にだけあったものが,ある大きさをもって実現されること,その中に入れること,それは単純に楽しい.それだけだったら同じマンションを延々と作り続けていてもいい筈だけど,やはり見たことがない,こうなったらいいんじゃないかという期待を込めてエネルギーをかけたものが実際にできて体験できるのが楽しい.実際には建築は場所や施主に依拠していてルーティーンワークにはなり得ないのだけれど,何か新しいものを作ろうという意気込みがありそれが信じられる場合には設計は楽しい.
作ったもののお陰で嬉しい気持ちになる人がいるのも嬉しい.
自分が関わったものじゃなくても,そこに込められた意気込みが理解できた気がする時は,そこを訪れるのは楽しい.自分が知っている人の関わった建築だとか,自分が勉強してある程度知っていると思える建築だとか.
そこで得た体験をストックして,次に生かせるかもしれない,と思えるのも楽しい.
そう考えると,自分の中の建築に纏わるわくわくは,一回性が強い気がする.「知る」「体験する」に近い何か.あとは「パズルをきれいに解く」に近い感覚もある.
素敵な人生を自分の使っている建築(自宅とか職場とか)の力で実現しよう,とか,建築で社会を活気づけることを意図されたその場所を使おうとか,そういう興味は薄い.毎日そこを使うことが楽しい,というような継続的なわくわくは,建築そのものの意匠性よりも,その場所の存在,そこにいる人の存在に,より大きく依存している気がする.勿論,あらゆる場所を作り出す行為は,建築,と呼ばれうるので,そういう意味では建築が無ければそれらの活動も成り立たない訳だけれど.
例えば自分が設計する上ではあまり面白いと思わないかもしれない画一的な高層住宅が集まる場所は,その建築自体は面白くないが,人が集まることで生まれるエネルギーを味わうことはかなり面白いかもしれない.
誠実に「建築」を設計する人は,やはり継続的にその場所を使う人の生活をどのように設計するか,を真剣に考えるべきだと思う.祝祭空間やパビリオンはともかく,「使いづらい」は排除すべき,だろう.だが自分は「使いやすさ」「にぎわい」を生み出すことにはそれ程興味が無くて(勿論作ったものは喜ばれて欲しいのだけど),寧ろモノとしての建築の方により興味があるようだ.建築は100年以上生きるのだから,100年後の人がどういう生き方をしているかなんてわからない.もうそこには誰もいないかもしれない.でも,それでも尚価値を担保できるとするなら,それはモノとしての価値なんじゃないか,というか.
そういう意味で,自分じゃない人が設計に関わってくれることをありがたいと思う.今そこを使う人の幸せを真剣に考えられる人が設計チームには必要だ.
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何かを喜べる,或いは何かに心を動かされる,というのは,自分の何か,労力なり時間なりお金なり,を投資した,ということと密接に関係がある気がする.投資することでそれと「関係を作る」.それが,ある意味で,自分の一部になる.
自分は犬に全般的に興味がないが,友達の家の犬の調子が悪いとなると,少しは心を痛める.それはその友達と時間を共に過ごしたことで,その友達の存在が部分的に自分の一部になるからだと思う.
星の王子様できつねが「飼いならす」という不思議な表現を使って言いたかったことは,こういう「関係性を築く」ということなんじゃないかと思う.
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