いつも,もやもやぬるぬるとしていて,考えようとすると逃げて行ってしまう生活のイメージ.何度でも挑戦してみる.書きながら考える.
インテリアデザインはわからない.私にはよいインテリアと悪いインテリア,好きなインテリアと苦手なインテリア,が特にない.興味の対象外なんだろう.私にとって建築は,俯瞰で見る構造物であり,アイソメトリーで透視される物体である.内包される空っぽの空間も含め,どのような形にするか,それをどのように組み立てるか,に興味がある.だから,私にとっては,躯体上棟時の物体や,廃墟になった建築が,もっともクリア.
そのことは,私自身に個人的な家での生活・活動が著しく欠如していることとも,多分関係している.生活,というもののイメージがないということ.例えば,子供には生活のイメージはないんではないだろうか.その時その時の興味と,あとは親や社会から与えられた枠組みに従って生きている.年齢的に十分子供でないにも関わらず,未だに生活のイメージがないことになんだか劣等感を感じるのだけど,そういう生き方もありなのではないか,と肯定しようという気になってきている.というより,何度も,きちんと生活をしようとしては挫折した結果,肯定せざるを得なくなってきた,というか.
今書きながら気が付いたが,「きちんとした生活をする」というイメージ自体が,自分の外側から来ているという点に問題があるのかもしれない.「きちんとした生活」の範疇外でも,不快なこともあれば不快でないこともある.例えば,散らかった部屋は不快(というか不便)だが,夜更かし(それに伴う翌日の状態も含めて)は私にとっては不快じゃない.不快なものに気が付いて排除するようにしていけばいいだけの話ではないだろうか.
しまうこと,片付けること,はどうにも苦手だが,片付いた状態,は好きだ.片付いた状態になると,何か別のものが降ってくる.空っぽの入れ物をまた満たすように.
生きることを,自分なりに作り直していけばいい.
こういう時,一人暮らしはつくづくいいなと思う.どんなことも自分で決められる.
「生活」を定義しなおす,というよりも,「生活」の概念を無くして,ただ,生きる.活き活きと,新鮮に,生きる.
好きなことを集めて,愉しいことを集めて,生きる.
友達と会うのは楽しい.仕事をするのも楽しい.
何かに没入できている時が幸せだ,というのははしたないようだが,自分にとっては真実だ.
その時,やりたい,と思う気持ちに敏感になる.そしてなるべく短距離で行動に移す.
例えばテレワークが推進されると,そういうことがやりやすくなるだろう.
こうやって前向きな気持ちになっているのも,もとを正せば,朝の散歩の習慣のお陰で,部屋が少しずつ片付いてきているからだ.
習慣や部屋の状態の力を見くびってはいけないな.
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