安冨歩という東大教授が参議院選挙にれいわ新選組から立候補している。
銀座でマイケル・ジャクソンのスリラーのフラッシュモブをしたり、演説に馬を連れて歩いたり、突飛なことをしているらしい。そういう事自体、私は割と嫌いじゃないと思う。選挙にお祭りムードが加わって、閉塞感に風穴が開くならいいんじゃないか。選挙は勿論とても大切なことだけれど、深刻ぶった顔をしなくちゃいけない訳じゃないし、気楽に政治についてみんなで話せるようになる方がいいと思う。
「子供を守ろう」とだけ演説する理由(ハーバードビジネスオンライン)
彼自身は幼少期にある種の虐待を受けたと言っていて、親の期待や躾という圧力から子供を守ろうと主張しているらしい。全体的に、彼の主張は自分の身の周りの人間と近い話し方をしているからかもしれないが、わかりやすい気がする。
しかし、この人は、多分当選はしないのではあろうけれど、何故立候補したんだろう。この人が当選したとして、その時国会議員として何がしたいのかが見えない。これらの選挙演説活動が話題になって、少しでも自分の主張が社会に届けばいい、と考えたのだろうか。そうであれば既に目的は達せられている訳だ。
因みに安冨氏は女性装(女装ではない)でも目を引くが、自身を女性だと自認していて、恋愛対象は女性らしい。それについて、他のトランスジェンダーの人からの批判もあるようだ。曰く、身体的に違和感を感じている人の苦痛を理解せずに、マイノリティの権利を振りかざしている、というような感じのよう。
以前にも書いたかもしれないが、自分は性自認が薄い(男でも女でもどっちでもいい)し、持って生れた身体しか知らず、身体的違和感も感じていない(好運なのだろう)ので、どちらもよくわからない。社会的には身体的性別に従って扱われていて、それによる恩恵も被害もあるとも言えるが、まぁそんなものかと日常的には受取っていられる程度なのは、多分好運なのだろう。
身体的性別に男と女の別があるのはわかるが、「心の性」とか「性自認」というのはよくわからない。更にはそれが恋愛対象の性別とはまた別のものであるとするならば。性同一性障害に悩む方々は、男女の区別を内側から強く感じているからこそ違和感を感じるのだろう。
社会的に押し付けられるジェンダー的役割に時折辟易とすることはなくはない。しかし多くは、社会的な性区別が自身に内在化してしまっている結果であって、自分がそれから自由になれさえすれば、大して気にならなくなったりもする。他人に気に入られたいとさえ思わなければ(それの最たるものが恋愛だろうけれど)枠組みやカテゴリーから自由になれる。
PR