今年はよく仕事しているな,と思っていたのも束の間,生活ががががと崩れてしまった.
今日からは建て直し.
ヨーロッパでの仕事のよい点は,がががと崩れてしまっても,それだけではだめになってはしまわない,ということだろう.人は様々な意味で失敗するものだ,というのが織り込まれていて,そこからまた歩き直すことがある程度許されている.
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と書いてから,言葉を見失ってしまって,1週間くらい過ぎた.まだ建て直しはできていないまま,もう目前に短期旅行が迫っている.その準備の締切りは今日のお昼.
兎に角締切りに追われている.がそれは仕事量の所為というよりも,常に一人で走り続けていることができなくて,時間ばかりを浪費してしまうからなんだろう.区切りをどうつけていいのか,よくわかっていない.多分どこかで区切り無く生きたいと願う部分があるんだと思う.
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人前で何かを話すことにはもう随分慣れていなくて,こういうのは兎に角場数なのだとわかってはいても,やっぱり少し緊張する.どんなに短い時間であっても,自分は何を伝えたいのか,それを掴んでから話したい.話す内容を考えていると,自分がぼんやりと感じていることの中で伝えられる形にできるものが如何に部分的でしかないか,ということを再認識する.1のことを伝えるには,10のことを持っていないとならない.
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Hiromiのライブに行った.よかった.今回は Stanley Clarke とのデュオ.
前回観た時にはソロで,それはそれで素晴らしかったのだけれど,半端無い緊張感があって,それがデュオになると肩の力が抜けて楽しい雰囲気がより前面に出ていた.誰かがいる,ということはそういうことなのかもしれない.
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話を戻す.いつも目の前にあるものは壁のように見えたりして,後から振り返った時に,憶えていることでストーリーが紡がれていく.それは,ある種の創作作業でもある.
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多分,何をしても,まっさらになったりはしなくて,寧ろまっさらになるよりも,いい風合いを出せるようにする方がずっといい.
まっさらにならない,ということは,不可逆的にいつまでも持っている,ということで,しかも持っているものは基本的には単調増加していく.
年をとって,年をとった何かや誰かに出会うということは,その何かを持ったそのままのものや人に,何かを持ったままの自分が出会うということだ.それは同じものにまっさらの自分が出会うのとは,多分違う.
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外用の顔を作ろうとすると,他人と引き比べてつい背伸びしようとしたり,何か抽出されたものを出そうとしたりして,それはそれで大事なことだと思う.
が一方で,そこだけを繰り返していくと,ある時,少しずつ大きくなっていった薄い外側の殻がふっと音も立てずに崩れるような,そんな風に,崩れてしまうように思う.
薄い外側の殻を内側から支えるのは,例えば食事を作ったり,部屋に観葉植物を置いたり,部屋を掃除したり,もしかしたら運動したり,そんなような「生活」なのだろうという予感はあって,そこを埋める努力を始めては挫折する,ということを繰り返してはいる訳だけれど.
そんなことは多分,他の人の方がずっと実感を持ってよくわかっているんだろうと思う.それをわからない,ということが少し好きだったりすることが,理解の一番の障壁になっている.
今の自分には仕事があって,お金にも幸い今のところはひどく困ってはいないし,健康面にも大きな問題がない.人間関係のしがらみも他人に比べれば比較的薄い(自分の今までの中で一番薄いという訳ではなくて,これはこれで気楽だ).だから,つい,「生活」が「仕事」に限りなく侵食されがちで,そんなことが気になるんだろう.自分が他の状況にいたら,或いは他の人間だったら,生きることの別の様相が気になったりするのかもしれない.それ程普遍性があることでもないのかもしれない.
でもまあ,こういうことを考えて思うのは,誰かに何かを話すことができる機会があるならば(ここもその一つでもあります),結局は自分の伝えたい核に自分の視線を集中したい,ということだ.
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