バーゼルの日本食屋さんで,無料で分けていただいた文庫.
海外で生活していると,日本語の本というのは貴重なので,それだけでありがたいのに,
更に大好きな辻邦生の小説ということで,とても嬉しかったのでした.
彼の文章の品の良さ,感情が通っているのに透明なすがすがしい感じ,そういうものが私は大好きなのです.
天草の雅歌は,江戸時代初期,秀忠から家光の頃の,長崎を舞台として描かれた小説です.
長崎に生きる人々が,異国をどのようにとらえ,どのような政治的文脈に巻き込まれ,
そして日本が鎖国への道を歩んでいくのか,という顛末.
結局のところ,何かを排斥するのは,何かに対する恐れから来ているということ.
鎖国によって日本固有の文化が醸成され,それを糧に今の私たちが生きている面もなくもないことを思えば,
一概に鎖国がよかったのか悪かったのか言い兼ねる部分はあるとは思いますが,
やはり,大局に立った,姑息でないおおらかなあり様が,私は好きだなと思います.
人を好きになることも,周囲に大きな影響を及ぼす判断を下すことも,
背景にそのような清々しい水脈が流れていてほしい.
鎖国にはいい面もあったのだと言えるのは,
明治維新の苦労があって,戦後の苦労があって,その後の今だからのような気もするのです.
家光が日本を一国として統治するために,急速に規則をがんじがらめにしていったこと.
そこから生まれた閉塞感は,今の日本にも通じるものがある気はします.
今の閉塞感が,彼のような全体を見渡した政治的判断からなされているようには思えない,
という違いはあるとは言え.
江戸の文化が花開いたのは,その閉塞感が薄れる200年後のことですから,
やはり規則で人を縛り上げることは,あまり得策でもないようにも思えます.
鎖国について小説の中で述べている部分.
「・・・国内に居すわって交易するだけで利益を追っていたら,最後には,自分自身の首をしめることになる.
日本は異国のあいだに立って孤立してしまい,
天竺やエウロッパや安南やジャガタラとともに生きてゆくことができなくなってしまう.
そうなれば,私たちは世界のなかで物を考えたり感じたりできなくなってしまう.
よかれ悪しかれ日本のことだけしかわからなくなり,盲目となり,井の中の蛙となり,傲慢になり,無知になる.
私はそのことをおそれる.
異国交易というのはたしかに物品の流通だ.
しかしそれ以上に知識や感じ方や考え方の相違を教え,私たちを狭隘な独善から救い出してくれる.・・・」
こういう風に考えられるのは,異国の風に触れた後のみだと思います.
そのような環境にないものに説得するのはとても難しい.
主人公の上田与志も,最初は単純に兄への対抗心から行動していたのが,
コルネリアに出会い,大きなものの考え方に触れるにつれ,
兄との間の確執などどうでもよいものとなり,眼をひらかされていく.
コルネリアとの恋愛も,同様に美しく描かれます.
コルネリアがとても魅力的.(総じて辻邦生の描くヒロインはとても魅力的に見えます.)
芯のある女性ですが,それでも不安に揺れたりもします.
でも,それを受け止めながら歩いていくのです.
「あなたがあなただということが大切なのです.
あなたがこの世に生れてきたということが,時々,信じられないような気持になることがあるのです.
あなたがただそこにいるという単純なことが,
私には,驚くべき事実に感じられることがあるんです.」
「・・・大切なのは,恐ろしいこと,困難なことから逃げることではなく,
それをよく見極め,それと戦って,それをなくすことなんです.(中略)
もしそれから逃れて与志さまにかばっていただいても,
わたくしは本当に幸せでいられるかどうか,自信がありません.
むしろこうして与志さまと一緒に働かせていただいたほうが,ずっと幸せで落ち着きますの.
自分の家を一歩一歩築いているような感じになるんですの」
「わたくし,ほんとうは,そんなに偉ぶるつもりはなかったんです.
でも,小曾根さまと話していて,やはりそう感じましたの.
わたくしね,自分のことを大げさに考えていました.
わたくしに大事なことは,上田さまのところへ参ることしかありません.
それがよくわかりましたの.」
全体としては,一本気で単純な考え方が,裏をかく姑息なやり方に敗北していく様子.
その中でも,親友の最期に,自分に対する誠実さを感じ取ったり,
自分の気持ちにまっすぐに行動することに,光を見出していくこと.
辻邦生さんの小説を読むと,
ふと忘れかけていた,自分の中の清々しい水脈を,取り戻せるような気がします.
辻邦生さんからの,時を超えた贈り物.
もう一度背筋を伸ばして前を見ようと思わせてもらえるのです.
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