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前回書いたアラーキーの件からつらつらと考え続けています.

少し整理すると,問題は,両者に同意が無かった,と現時点で少なくとも一方から捉えられている,ということです.こういう事態を避ける為に,契約書,というものがある訳ですが,今回は慣例的に無かった.
支配欲,被支配欲そのものが否定されている訳ではなくて,両者の合意の上であれば,それはあり得なくは無いということ.例えばビジネスとしてのSMプレイのように.ただ,合意する時点では両者は対等であるので,その時点では支配されたいという欲望に少し反してしまう点には目を瞑らねばなりませんが.

ハラスメントが起きた時点で不快を感じた場合,それを表明できないというのは確かに問題です.いやだったけど,言い出せなかった.言い出したけど取り合ってもらえず,自分では何もできなかった.周囲の圧迫によって黙らされてしまう状況というのは,確実に良くないですよね.

でも,この件での私の興味の中心の一つは,その時点で自分では,少なくとも部分的にはポジティヴなものを受取っていると思い,納得していると思っていても,後になってから,実は自分は傷ついていたのだと気づくことがある,ということ.或いは,関係性によって傷ついている最中には,しばしば自分ではそのことに気が付けないということ.寧ろ陶酔していたり,自分でなんとかすべきた,なんとかできると思っていたり,その事に誇りすら感じていたりするということ.そういう事実.そして問題が表面化しないまま関係が終わった時,そういうことは寧ろ,美談になったり,真実の愛や選ばれた運命的なものに見えたり,するということ.
そしてさらに,人はそういう美しさによって心を潤されてしまうことが多々あるということ.そういう裏表の危うさ.


花より男子の道明寺司は女性に人気です.古いですが壁ドンされたい女性も多いことでしょう.でもどちらにも,ハラスメント的要素はあります.現時点での事実として,女性には「守られたい」「主体性を投げ出したい」「モノとして扱われたい」という欲望が比較的露にあるように見受けられます.(男性にも「振り回されたい」という欲望はあるかな.)アラーキーの写真に私が見るのはそういう欲望だし,その点に触れずに,男根的欲望の面ばかりにスポットライトを当てて非難するのは片手落ちに思えます.
その時そこにあった(かのように少なくとも写真からは受取れる)欲望が,時間が経った時に,苦い思い出に変わってしまうということが起こりうるということ.(KaoRiさんの場合の事実関係とは無関係に.念のため.)





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アラーキーこと荒木経惟の長年のミューズだったKaoRiさんが,
受けてきた抑圧について告発した.

KaoRiさんの告発

一方的な言説で,現在のところ荒木側は沈黙を保っている.
これは明らかに me too の流れである.


勿論,破壊されてしまったKaoRiさんの人生を思えば,
なんとひどい,ということは認めざるを得ない.

一方で,アラーキーの写真については,評価がどうであれ,
ある種の力を感じるのは確かだ.
これをどう考えたらいいんだろうか.

アラーキーの写真には,男性側の欲望はよくわからないけれど,
確実に女性側の欲望も写し出されていた.
一時的にモノとして扱われたい欲望.
女性をモノとして扱おうとするのは,何も一部の男性ばかりでなく,
多分女性自身もそうなのだ.
ほかの女性に対しても,自分自身に対しても.
それは,陶酔,小さな狂気と呼べるし,陶酔は快楽だ.

でもそれは,人権として正しいことではないし,
そういうフィルターをかけた瞬間に,もう陶酔の余地は残されていない.

弱者,は,その最中には,必ずしも弱者ではなかった筈だ.
それでも日の光に曝せば,弱者ということになる.
そして,「弱者」は声を上げ始める.


正しさ,が広がるに従って,
許されるある種の真実,感情が狭められていくということ.



いつの間にかオリンピックなるものが始まり,終わり,そして既に忘れられつつあるらしい.
オリンピックに関心がなく,さらに冬季オリンピックに至っては,フィギュアスケートとジャンプ以外にも競技があるの?レベルの認識で,そもそも平昌って何て読むの?ひらまさ?とか思っているうちに終わっていた.友人が,邦人がメダルを獲ったとかいう映像を送ってくれて,義理立て程度にちらっと見た気もする.

言葉の十全でない外国で一人で暮らし,テレビを持たず,ラジオを聴かず,日常的に世間話を一切せず,町に出てもコンビニから音楽が流れてくることもない,新聞の見出しをちらっと視界の片隅に入れることもない,眠ると食べる以外は仕事しかしていない,そうやって暮らしていると,社会に対する興味も落ちてくるのである.

それ程社会の動きの情報から隔離されていても,やはり肌で感じる時代の流れ,というのはあるようにも思う.排他よりも共存を.






僕はね、ともかく、もうちょっと、残りますよ。
僕はね、仕事があるのだ。
僕はね、ともかく芸人だから、
命のとことんの所で
自分の姿を見凝め得るような機会には、
そのとことんの所で
最後の取引をしてみることを要求されているのだ。

僕は逃げたいが、逃げられないのだ。
この機会を逃がすわけに行かないのだ。

桜の時期に帰国しないので,なかなか桜は見られないのですが,
SNS上にはこの時期になると桜の写真が溢れます.

美しいですよね.

実は10代の頃は,桜のどこが美しいのか全然わかりませんでした.
桜に限らず,花全般の美しさがわかりませんでした.
当時は,生殖のために色とりどりに虫に媚びて,気持ち悪い,
と言っていましたが,多分,
みんながきれいと言うからきれいと思いたくない,
という天邪鬼な気持ちが正確なところだったように思います.

誰かがAということに対して,違うんじゃないの?と疑ってかかる,というのは
私の基本的な性質として今もあります.
自分に関係のないことは,あなたはそうなのね,ということでどちらでもよく,
従って受け入れることも簡単なのですが,
自分の態度を決めるとなると,まず疑いから,というところがあります.
それは,実は他人を信じやすい自分の性格の,安全装置,でもあります.

そして,桜.
私は軽度の近視なのですが,ある時眼鏡をかけずに満開の桜並木を観ることがあって,
それは,ぼおっと一体にかかる桜色の雲のように見えて,
あらゆる自分の疑いを超えて,美しかったのです.
あぁ,本当に桜はきれいなんだな,と.
それ以来,一般的な花の美しさについても,許せるようになりました.

そうして,自分の理性を超えて説得されるというのは,ありがたいことです.
だから,私は桜が好き.


桜については,苦手だという人もちらほらいますよね.
知合いは,一度に揃って咲くソメイヨシノが,神経症的で好きになれない,と言っていました.
葉と花が同時に出ないように品種改良され,
全てが同じDNAを持つという東京の桜が気持ち悪い,
というのも,わからないではありません.
暖かくなってきて,浮かれる人々のバカ騒ぎが下品だ,
と言いたくなるのも,わからないではありません.

それでも,
趣向を凝らして季節をより楽しもうとする先人の歌舞く精神も
素直に浮かれ騒ぐ動物的な人の営みも,
私は好ましく思います.

けちくせえこと言うなよ,浮かれる時は浮かれようぜ.


そして,同じようにはっとする程美しい銀杏の黄葉について,
いちいち文句をつける人は聞いたことがないところを見ると,
やっぱり桜というのは文化的に日本人にとって特別で,
木や花としてのありようだけでなく,文化的な背景まで含めて,
人は好きになったり嫌いになったりするものだな,と改めて思うのです.



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