更に続けて断片的なメモ.
選択的夫婦別姓制度について,基本的に賛成である.選択肢が増えることで,辛い思いをしている人が減るならいいことだし,家という形を保持する為には家族は同じ姓を持たねばならない,と考える人は同姓にすればいいだけだ.それはそうとして,この話題では必ず,女性が抑圧されていることになっている.そこに私は違和感を感じる.現状の同姓を強制する制度であっても,男女平等だろう.現実的に殆どのケースで女性が姓を変えているのだとしても,その現実を変えていけば抑圧ではなくなるのではないか.選択的夫婦別姓制度は,男女不平等の問題ではなく,名前,特に姓というものがある人間にとって何なのか,それは一生の間で一貫しているべきものなのか,ということが問題なんではないだろうか.
困っているという声は殆ど聞いたことがないが,名前というアイデンティティの強制という意味では,子供の姓が親と同じであり,名を親が強制する,というのは,子供の抑圧にはあたらないのか.勿論生まれたての赤ん坊に自分の名前をつける能力はないだろうが,例えば成人時に自分の姓名を自分で選び取る,ということだってできてもいい筈だ.選択的親子別姓制度.古くは元服制度というものもあった訳だし,名前が一生の間で変わる,という人生も十分にあり得るのだ.或いは,本名が複数あって何故いけないんだろう.ペンネームみたいに.
ただ,親が名前をつけることが抑圧である,といった論調は今のところ聞かない.差別も抑圧も,被差別者・被抑圧者が意識して,初めて生れるものだから.
鈴木均さんと山中京子さんの息子が田中勘三郎さんである,という家庭を一般的に想定するとどうか.ここで一つの疑問に辿り着く.現在の文化では,姓というのは基本的にその人の血筋の痕跡であり,家族を表していることは間違いないだろう.鈴木均さんは,鈴木さんちの均くん,な訳である.これが崩壊するとしたら,そもそも姓なんて要らないんじゃないのか.
そう考えてくると,なんだか今ある文化を失ってしまうのが惜しいような気がしてくる.それが例えほんの150年程のことであったとしても.ちょっと窮屈でも,ある程度姓は家族と関連付けられている方が,その不便さの中に豊かさあるんではないだろうか,というような.
まあ,あまりラディカルになりすぎず,選択的夫婦別姓制度程度にしておけば.
衆議院議員で,秘書に暴言暴行を働いた人がバッシングされている.実際の音声がネット上に流れ(秘書の人,録音してたんだなあ)それを聞くと,うわぁとなる.
しかしながら,彼女の本分である政治家としての仕事を全うしていた場合,どの程度糾弾されるべきことなのであろうか.ハラスメントはよくない.それは確かだ.しかも秘書から刺されるようでは政治家としての力量も疑わしい.よって今回は当てはまらないのだが,秘書が刺さない程度の人望が保てているのであれば,あまりに聖人君主を求めすぎるのも息苦しいようにも思う.それよりも,憲法を守らない首相とか,自衛隊を私物化する大臣とか,そちらの方が,政治家の本文として問題がある.私は政治家に,必ずしも私生活の上で完璧な人格者であることを求めてはいないようだ.というより,自らを省みた時に,どこまでも埃の出ない人なんているのか.それぞれ埃を身に纏いながら,それぞれの分野で力量を発揮していけるのがいい社会ではないのか.これだけ,普通に考えたら理解しがたいような政治家ばかりが目立つ中で,少々人格崩壊している人と,どちらが政治を任せるのに値するのかは,明らかでないように思う.政治家だけに清廉潔白を求めるなら,給料を跳ね上げなくてはならないだろう.
彼女について,病気だよ,という表現がある.境界性人格障害なのでは,とか.そうやって,「健全な」自分とは違う部類の人間なんだ,とレッテルを貼って排除すると,人は安心する.けれど,部下が失敗をしてつい怒鳴ってしまう,程度のことは,誰にでも起こりうる,或いは少なくとも,その程度のことで社会から排除していたら,社会が成り立たなくなってしまうのではないだろうか.誰かを排除すればするほど「健全」の枠は狭まって行って,いつかは自分が枠の外に出てしまうだろう.
どんな人の中にも,自分の欠片を見ることはできる,と信じたい.それがとても悲しい欠片であるとしても.
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