バレットジャーナルなるものを導入して、日々手書きすることがあるのはよいが、日記や長めの文章を綴る習慣が益々失われてしまっている。
友達の調子は一時より持ち直してきたようだ。持ち直してきた、というのは、話ができるようになってきた、という意味である。かつてより明瞭に、根拠のよくわからないもの(占いとか超常現象とか)に頼るようになっているようにも思えはするが、人は案外ある程度そういうあやふやなものに頼って生きているものなのかもしれない。
別の旧友Oから珍しく手紙を貰った。とても嬉しかった。手術成功とのこと。序でに転職したそうだ。上司との折合いが悪かったと言っていた。彼女はかなり理詰めで仕事をし、賢く割り切れそうなタイプに見えるので、それでもそういうことが起こり、会社を変える決断をすることがあるのだ、というのが新鮮だったし、勇気をもらえた気がした。彼女らしいプレゼントが同封されていて、心がほっこりとした。
友人Hが旅行先のナポリからお土産を買ってきてくれた。お心遣い、痛み入ります。
巷はアートウィークである。
アートがなんぼのものよ、とつい思ってしまうのは自らの不明の所為なのだろう。軽くコンプレックスはある。現代アートの方が好きだ。そう言えば建築も現代建築の方が好きだ。どことなく理解できる、繋がっている感じがするからかもしれない。
アートに対してよくわからなくてもどこか信じているのは、音楽が大きな意味を持つことがあることを知っている所為だと思う。音楽にそういう力があるなら、アートにもあるのかもしれない、と思える。いつか。
昨今社会的に大きく変わりつつあるのは、ハラスメント(セクハラ、パワハラ、モラハラ等)にと、ワークライフバランスに対する意識ではないだろうか。社会の「常識」は変わるときは劇的に変わって行く。
セクハラを告発する動きが活発になってきている。同性愛に関するドラマも増えていて、概ね肯定的に受け止められている。(今のところLGBTのうちLG程度ではあるけれど。)セクシャルなことが「恥」「秘密」でなくなって陰影を失い、同時にその魔力を失うことは、文化的には寂しいこともあろうけれど、気楽な気がする。ある個人の恋愛対象となる性別、という言い方があるけれど、例えば異性愛者の女性にとって全ての男性が恋愛対象になる訳もなく、ある特定の人を好きになるというだけに過ぎないと思う。社会的な偏見がまっさらになった時に、男と男がキスするのは気持ち悪い、というような感触はまだ残るのだろうか。
ところで、異性愛者の女性にとってのレズビアンに対する忌避感情よりも、異性愛者の男性にとってのゲイに対する忌避感情の方が遥かに強いように見受けられる。この後つらつら書いてみたけれどまとまらなかった。
菊地さんの文章を久し振りに見たら、「いつでも新しい恋はできます。しかも、狂恋みたいな地獄と裏腹な激しい奴じゃなくて、さらっと気持ち良い奴が。」というのがファイナルスパンクハッピーの唯一のメッセージだそうで。少し曲を聴いて、あまり嵌らなかったけれど、そんなものだろうか。
若い頃の恋は、どこか相手の可能性に惹かれ、お互いを一緒に作り上げていこうという試みなのかもしれないけれど、年をとると相手も自分も変わりづらくなっていって、例えば住むところだって簡単には変えたくない。年をとってから誰かを好きになるというのは、きっと全然別の何かなんではないかとも思える。そう言えば最近南海キャンディーズの山里亮太(42)と蒼井優(33)が結婚会見をしたけれど、幸せそうだった。蒼井優はまだ33だけれど。
大学に通ったのは楽しかった。最後の課題が終らなかったのが心残りではあるけれど。
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