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アフターコロナに関する隈研吾さんの配信を見た.
本題に関わる部分は少なかったけど,2点,とそこからつらつらと思いをはせたことども.


1.箱からの脱却

入れ物を作るのが建築の仕事だが,入れ物の外側をデザインすることが増えてくるのではないか,という話.生き方のデザインみたいなことを言いたいんだろう.

自分は構造設計者なので,物理的なものを作らないと仕事が始まらない.自分の職業に縛られる必要はないとかいうこともあるかもしれないし,もう建物は要らないという話もあるだろう.それでも,建築サイズのものを作る歓び,は確実にあるし,それは古来ある比較的普遍的なものではあるだろう.入れ物でないとして,何を作っていくんだろうか.

話は飛び火していく.

箱,というのは,区切る,分類する,ためのもので,人間の行動を分類する建物,オフィスだとか,体育館だとか,住居の中でも寝室だとかダイニングだとか,そういう「分類」は,効率を上げる.何に使われるのかわからない建物を作るとすると,オーバースペックにならざるを得なくて,何にでも使えそうなものは,何に使ってもちょっと不便,ということになりかねない.素晴らしい音楽ホールは,音楽ホールのために最適化して作るからこそ可能なのである.私の職能範囲で言えば,家に求められる性能と,体育館に求められる性能と,消防署に求められる性能は違う.頑丈な倉庫のようなものを用意しておいて,中を区切って使う,というのは,いかにも拙く,不調法だ.
使い方の側面で言うと,オフィスで仕事をすると,資料も必要な知識を持った人も集まっている.そういうことは,オンラインでできるようになると,物理的に集合しなくても,つまりはそのための「場」の区切りがなくても,成立するのでは,という話は,ありそうにも思える.
それはそうなのだが,家で仕事をしたくない私のような人間だっている筈だ.その理由はまだ言語化できていないけれど.そういう人たちはどこで仕事をするんだろう.同じ組織に属する人の集まる会社という決まった場所,ではないとしても,仕事場,は必要だ.
それと,毎日同じ人とある程度の時間場所を共有する,ということが生み出す連帯感のようなものは見逃せない.家族という絆の半分くらいはそういうものからできているんじゃないかとも思うし,同僚との緩やかな繋がりも確実にある.それは,継続的に会う,場所を共有する,ことから生まれている.常にカフェのような不定の場所で仕事をすると,毎日違う顔しか見ないことになって,それは誰とも会っていないのとほぼ等しい.誰かとの絆の中で,目的のない話をし,そこから生まれてくる何か,は,少なくないように思う.

さらに,仕事場に行く,ということが,行動範囲を広げ,その結果遭遇するものを増やしているという側面はあると思う.本屋さんとオンラインのブックショップの違いのように.そういうことで失われる,予め計画しづらい豊かさ,のようなものはそぎ落とされていくのだろうか.
デジタルに今のところ欠けているように思われることの1つは,目的のない行動の生み出す何か,なのかもしれない.

自分にとっての「仕事場」の要件は,仕事に関する資料や設備が装備されていて,かつ,仕事でないものがある程度そぎ落とされている,ということだと思う.現在テレワークを断続的に行っていて一番面倒なのは,資料の持ち運びである.デジタルデータにはなり切れないものがまだまだある.
しかし,今気が付いたが,同僚に比べて私は,遥かに「会社に住んでいる」度合いが高い.生き延びるのに不足しているのは,着替えのストックくらいではないだろうか.私の生き方が既に,用途ごとに切り分けられた場所という社会システムから逸脱してしまっているのだ.そういう自分なのに,仕事場で生活をすることは可能であっても,家で仕事をすることはほぼ不可能だ.「家」というのは一体なんなのだ.

「家」とは何か,は人によって違うだろう.

「家」は「家族のいるところ」という人もいるかもしれない.が,一人暮らしの自分にはあてはまらないので,自分の「家」の定義は別に考えてみる.
「家」は,眠る場所,身支度を整える場所,服や本やたまに使うものがストックされている場所.機能的にはそういうことだ.が,眠ったり,風呂に入ったり歯を磨いたり,洗濯をしたり料理をしたり,している,以外の時間に,「家」でみんな何をしているんだろうか.本を読んだり,映画や動画を観たり,ピアノを弾いたり,習字を書いたり,何かの工作をしたり,税金の申請をしたり,はしている想像がつく.できることがたくさんあると,散漫になってしまうのは否めなくて,本当に本を読みたいなら,どこかに本をもって出かける方が効率的ではあるけど.
自分にとっては,思い立った時にすぐにやってみることができるというのは,結構嬉しいことだ.断捨離が少し前にブームだった.楽しく断捨離して,気持ちがいいと思えるんだったらやればいいと思うんだけど,確かに片付いた部屋は気持ちがいいとも思うんだけど,その片付いた状態を維持することを想像すると,ため息が出てしまう.片付いて気持ちがいいと思ったすぐそのあとに,散らかし始めてしまう.みんな,断捨離した後の家で,何をするんだろうか.殆ど使わない書道の道具とか,絵の道具とか,やめてしまった弓道の道具とか,料理本とか,滅多に使わない来客用の布団とか,休暇用のリュックサックとか,断捨離のルールに従えば捨てた方がいいんだろうけど,直感的に何かが違う.本質的に違う,と思う.
自分の趣味の行き届いたそそと片付いた部屋で,一人でも日々身なりをきちんとし,自分の好きな食べ物を丁寧に作って食べたりする.そういう「素敵生活」は,まるでそういう生活をする人を演じているように感じる.そういうのがぴったりくる人もいるんだろうけど,私は違う.

私の理想の「家」の要件に入ることは,散らかりづらいということ,思い立った時にすぐに何かができること,立地が便利なこと,明るいこと.
私にとっての理想的な「家」というのは,まだ目的をもって独立に場所や機会を準備するには拙い「出だしの何か」を始めてみる場所,なのかもしれない.
それに加えて,概念としては「自由な場所」ということが何よりも大事な価値にも思える.散らかしていても,しようと思っていたことをしなくても,料理が失敗しても,誰にも何も言われない場所.安心できる場所.何からも守られている場所.だからこそ,散らかってしまうのでもあろうけれど.

区切る,分類する,というのは,理性の本質だと思う.何か混然としたもやもやとしたものに,名前を与え整理し取り出しやすくし,洗練する,という営み.もう一度もやもやした状態に戻って分類しなおす時だ,というのには大いに賛成.
多分,「家」は,分類される以前のもやもやした自分,のための場所なのだ.



2.時間からの解放

テレビ番組がオンデマンドで好きな時間に見られるようになったり,集合・他者との都合からくる時間の制約から解き放たれていく,という話.

時間の制約があるのは,他者の都合との擦り合わせがあるからだ.仕事の締め切りもそう.なしにはできないだろうけど,幅を持たせることはできるようになるかもしれない.電話の代わりにメールにすることで,相手の時間の束縛度合いは減る,みたいな.
しかし,それは「会う」「同じ時間を共有する」が減っていくことでもある.「会う」ことの価値は言葉にしづらいから,目的関数にいれづらい.

オンライン飲み会が行われるようになってきた今,日本の友達とオンライン飲み会をする最大のネックが時差である.夜のムードと昼のムード.

最近動画コンテンツが増えてきているけど,私は嫌いだ.飛ばし読みができないから.時間を束縛されているようで,不自由で不快.


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