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何度も何度も,同じことを発見する.

例えば,
断捨離は私にとっては本質的に間違っていること
とか
家はくつろげる場所じゃなくてもいいこと
とか
ビジョンは予め描かなくてもいいこと
とか
習慣的に人に会うことの効用
とか

そういうことは,自分を自由にしてくれる.自分は自分自身でよく,一般に言われているものが合わなくたって,全然いい,むしろ自分にとってはどうなのかをひとつひとつ時間をかけて吟味していくことの方が,ずっと気持ちがいい.私は.

自分は自分でいいんだ,と言葉にしてしまうと,チープで当たり前だけど,そして前にも似たようなことを言っていたし思っていたかもしれないけど,同じことを何度も少しずつ深く理解していく.大事なことは大抵,当たり前に見えることなのかもしれない.ここ数か月で,自分は,少し前よりもまた,自由になった気がする.

自由になることの効能は,生きる力が湧いてくることだ.
不自由な時,何かが気持ちを縛り付けていて,がんじがらめの中を前に進もうとしてエネルギーだけ使っているが動けない,そこに使っていたエネルギーが解放されるからかもしれない.
いや,これは,一時的な非日常による高揚のせいかもしれないから,慎重になっておいた方がいいけど.


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自分はもしかしたら,ものに執着するタイプなのかもしれない.かなりの家具を人からもらったり拾ったりセコハンで買ったりしているので,意外かもしれないが.でも,ものに関してどうでもいいってことはあまりないのだ.服でも食器でも鞄でも家具でも,自分で気に入って買ったものは,それが新品であれセコハンであれ,やっぱり愛着がある.
KINTOの珈琲ドリッパ,珈琲ポット,珈琲カップ,ベッド,アトリエに持ってきた机,オフィス用のマグカップ,自分で作った本棚(容量オーバーで困っているけど),インドで買った布,エストニアで母と買った絵とカップ(残念ながら持ち帰る時に割れてしまってコップとしては使えないけど),モロッコで買ったラクダの皮,ベランダのオリーブの木,父からもらったランプマン,昔の彼氏からもらった箸置き,KINTOのトレイ,ベルリンで買ったコート,プラダの翠のコート,黒くてだらっとしたコットンのコート,夏の袖なしのだらっとした羽織,縦縞のセーター,そして勿論,いつも身の回りにいる文房具たち(私は多分かなりうるさい)特にペンとノート.

気に入らないものにお金を払いたくない.

あと,できればストーリーに依らないモノの力を信じたい.機能とデザインで勝負しているものが好きだ.そのモノがそこにあるだけで背景の説明なしに説得力のあるようなもの.

例えば建物で言えば,地域の人の力で作ったとか,地場の材料を使ったとか,そういうことが力を持ち,それが建築を進める力になるのはよくわかっているけど,50年後そういうことが全てどうでもよくなった時でも,まずはモノだけで説得力があるものが好きだ.さらに背景を調べてもっと好きになるのも,勿論とても楽しいんだけど.


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友達と話していた.

彼女は家でのリモートワークが性に合っていて,外に出られなくても苦にならないと言う.私は,とにかく家で働くのは無理だ.そういうことは,人の性格にも職種にもよるのだろう.

彼女のような人は,理想の家を描きやすいのでは,と聞いてみたら,自粛中すごく色々夢が膨らんだ,と言っていた.まったく具体的な形としての家の形を思い描けない自分とは対照的である.

これもまた色々なタイプがあると思うが,彼女のような人はビジョン型で,まずやってみたいと夢を描いてやってみるタイプなのではないだろうか.それに対して自分は,取敢えずやってみて,楽しさを発見する,ということが多い気がする.思えば仕事からしてそうである.仕事を始めるまで,自分にこの仕事がそこそこ向いているとも面白いとも知らなかった.

自分のようなタイプにとっては,まずやってみるきっかけ,が大事である.誰かと会って話すというのもその一つだろう.誰かと話していると,そこでの話から引き出されたことが面白くなって,ドライブフォースになるというようなことがある.(例えばこの文章にしたってそうである.)
取敢えずやってみる,ことが大事だ.

そういえばひと月前にも「思い付きと行動までの距離を短くすること」と書いている.


仕事の仕方にしても,まず最初にビジョンを描いてセットアップするんではなくて,面白そうと思ったこと,たまたま出会ったこと,を大事にして,そこから始めてみる形で進めてみるのがいいのかもしれない.
言葉にして,イメージにして,引き寄せるのがいい,最初のビジョンが大事だ,というのはよく言われていて,私もそれに引きずられていたし,うまくビジョンが描けない気がして引け目にすら思っていた節があるが,そういう柵からも自由になってもいいんじゃないか.計画を立てたりビジョンを描こうとすると,つい壮大になってしまいがちで,挫折してしまいがちだ.やってみて,発見する.小さく,楽しく,気ままに始める.


私にとっての「家」が「自由な場所」というのは,言い換えれば,取敢えずやってみられる場所,ということなのかもしれない.


外国にはまだ気楽には行けないけれど,お店も開いて,感染者も減ってきて,一般的にはコロナ禍の第一ショックは過ぎた感がある.今後,景気の悪化とか,テレワークによるの効率のよしあしとか,中期的な影響はまだ続くのだろうが.

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Mと毎日朝歩く習慣は続いている.自分ひとりではこんなに続かなかったろうけれど,誰かと一緒にいることで続けられる.ありがたい.

最近気が付いたことだが,毎日特定の理由もなく人に会う,というのはいいものだな,ということ.前日にあったこととか,別に敢えてメッセージする程のことでもないけれど,会うと偶発的に喋る.そういうことから生まれる動きがある.そしてそれは,精神的にとてもいい.家族・同居人というのもそういう側面があるのではないかという気もする.散歩に関しては,毎日限られた時間だけ,というのも功を奏しているのかもしれない.あまり長時間になると,別のやりたいことの足枷になってしまうだろうから.

もし自分が誰かと暮らすとしたら,お互いに負担にならないように,しかし定期的に共有する時間を作って,それ以外は勝手にしておく,というイメージがいいのかもしれない.そういうイメージは,散歩して初めて得られた感触だ.

オフィスに集う同僚というのもそういう側面があるのではないだろうか.似たような職種,似たような興味の人が同じ場所に,特定の理由なく集まることによって,何かの会話が生まれる.
そしてそれが私には現状欠けているものだとも思う.言語の足枷で会話に不自由するというのはそういうことだろう.自然な状態の自分ではなく,テンションを上げて半分程度の理解で話をしなくてはならないのは,自由な自分とは程遠くなってしまう.
ただ,自分の状態は置いておいても,こちらの働き方はかなり個人主義な面があり,よく言えば集中している,効率がいい,ということだが,あまりお喋りをするような環境でもない.自分がオフィスを作るなら,お喋りが,しかも仕事に関するお喋りが,当たり前にある環境にしたい.

リモートワークが広まっていくなら,そのことで零れてしまう価値を別の形で再構築したい.人が集うことで生まれる価値.それは,サードプレイスと呼ばれるようなものなのかもしれない.




週末にはピアノが来る.楽しみ.



アフターコロナに関する隈研吾さんの配信を見た.
本題に関わる部分は少なかったけど,2点,とそこからつらつらと思いをはせたことども.


1.箱からの脱却

入れ物を作るのが建築の仕事だが,入れ物の外側をデザインすることが増えてくるのではないか,という話.生き方のデザインみたいなことを言いたいんだろう.

自分は構造設計者なので,物理的なものを作らないと仕事が始まらない.自分の職業に縛られる必要はないとかいうこともあるかもしれないし,もう建物は要らないという話もあるだろう.それでも,建築サイズのものを作る歓び,は確実にあるし,それは古来ある比較的普遍的なものではあるだろう.入れ物でないとして,何を作っていくんだろうか.

話は飛び火していく.

箱,というのは,区切る,分類する,ためのもので,人間の行動を分類する建物,オフィスだとか,体育館だとか,住居の中でも寝室だとかダイニングだとか,そういう「分類」は,効率を上げる.何に使われるのかわからない建物を作るとすると,オーバースペックにならざるを得なくて,何にでも使えそうなものは,何に使ってもちょっと不便,ということになりかねない.素晴らしい音楽ホールは,音楽ホールのために最適化して作るからこそ可能なのである.私の職能範囲で言えば,家に求められる性能と,体育館に求められる性能と,消防署に求められる性能は違う.頑丈な倉庫のようなものを用意しておいて,中を区切って使う,というのは,いかにも拙く,不調法だ.
使い方の側面で言うと,オフィスで仕事をすると,資料も必要な知識を持った人も集まっている.そういうことは,オンラインでできるようになると,物理的に集合しなくても,つまりはそのための「場」の区切りがなくても,成立するのでは,という話は,ありそうにも思える.
それはそうなのだが,家で仕事をしたくない私のような人間だっている筈だ.その理由はまだ言語化できていないけれど.そういう人たちはどこで仕事をするんだろう.同じ組織に属する人の集まる会社という決まった場所,ではないとしても,仕事場,は必要だ.
それと,毎日同じ人とある程度の時間場所を共有する,ということが生み出す連帯感のようなものは見逃せない.家族という絆の半分くらいはそういうものからできているんじゃないかとも思うし,同僚との緩やかな繋がりも確実にある.それは,継続的に会う,場所を共有する,ことから生まれている.常にカフェのような不定の場所で仕事をすると,毎日違う顔しか見ないことになって,それは誰とも会っていないのとほぼ等しい.誰かとの絆の中で,目的のない話をし,そこから生まれてくる何か,は,少なくないように思う.

さらに,仕事場に行く,ということが,行動範囲を広げ,その結果遭遇するものを増やしているという側面はあると思う.本屋さんとオンラインのブックショップの違いのように.そういうことで失われる,予め計画しづらい豊かさ,のようなものはそぎ落とされていくのだろうか.
デジタルに今のところ欠けているように思われることの1つは,目的のない行動の生み出す何か,なのかもしれない.

自分にとっての「仕事場」の要件は,仕事に関する資料や設備が装備されていて,かつ,仕事でないものがある程度そぎ落とされている,ということだと思う.現在テレワークを断続的に行っていて一番面倒なのは,資料の持ち運びである.デジタルデータにはなり切れないものがまだまだある.
しかし,今気が付いたが,同僚に比べて私は,遥かに「会社に住んでいる」度合いが高い.生き延びるのに不足しているのは,着替えのストックくらいではないだろうか.私の生き方が既に,用途ごとに切り分けられた場所という社会システムから逸脱してしまっているのだ.そういう自分なのに,仕事場で生活をすることは可能であっても,家で仕事をすることはほぼ不可能だ.「家」というのは一体なんなのだ.

「家」とは何か,は人によって違うだろう.

「家」は「家族のいるところ」という人もいるかもしれない.が,一人暮らしの自分にはあてはまらないので,自分の「家」の定義は別に考えてみる.
「家」は,眠る場所,身支度を整える場所,服や本やたまに使うものがストックされている場所.機能的にはそういうことだ.が,眠ったり,風呂に入ったり歯を磨いたり,洗濯をしたり料理をしたり,している,以外の時間に,「家」でみんな何をしているんだろうか.本を読んだり,映画や動画を観たり,ピアノを弾いたり,習字を書いたり,何かの工作をしたり,税金の申請をしたり,はしている想像がつく.できることがたくさんあると,散漫になってしまうのは否めなくて,本当に本を読みたいなら,どこかに本をもって出かける方が効率的ではあるけど.
自分にとっては,思い立った時にすぐにやってみることができるというのは,結構嬉しいことだ.断捨離が少し前にブームだった.楽しく断捨離して,気持ちがいいと思えるんだったらやればいいと思うんだけど,確かに片付いた部屋は気持ちがいいとも思うんだけど,その片付いた状態を維持することを想像すると,ため息が出てしまう.片付いて気持ちがいいと思ったすぐそのあとに,散らかし始めてしまう.みんな,断捨離した後の家で,何をするんだろうか.殆ど使わない書道の道具とか,絵の道具とか,やめてしまった弓道の道具とか,料理本とか,滅多に使わない来客用の布団とか,休暇用のリュックサックとか,断捨離のルールに従えば捨てた方がいいんだろうけど,直感的に何かが違う.本質的に違う,と思う.
自分の趣味の行き届いたそそと片付いた部屋で,一人でも日々身なりをきちんとし,自分の好きな食べ物を丁寧に作って食べたりする.そういう「素敵生活」は,まるでそういう生活をする人を演じているように感じる.そういうのがぴったりくる人もいるんだろうけど,私は違う.

私の理想の「家」の要件に入ることは,散らかりづらいということ,思い立った時にすぐに何かができること,立地が便利なこと,明るいこと.
私にとっての理想的な「家」というのは,まだ目的をもって独立に場所や機会を準備するには拙い「出だしの何か」を始めてみる場所,なのかもしれない.
それに加えて,概念としては「自由な場所」ということが何よりも大事な価値にも思える.散らかしていても,しようと思っていたことをしなくても,料理が失敗しても,誰にも何も言われない場所.安心できる場所.何からも守られている場所.だからこそ,散らかってしまうのでもあろうけれど.

区切る,分類する,というのは,理性の本質だと思う.何か混然としたもやもやとしたものに,名前を与え整理し取り出しやすくし,洗練する,という営み.もう一度もやもやした状態に戻って分類しなおす時だ,というのには大いに賛成.
多分,「家」は,分類される以前のもやもやした自分,のための場所なのだ.



2.時間からの解放

テレビ番組がオンデマンドで好きな時間に見られるようになったり,集合・他者との都合からくる時間の制約から解き放たれていく,という話.

時間の制約があるのは,他者の都合との擦り合わせがあるからだ.仕事の締め切りもそう.なしにはできないだろうけど,幅を持たせることはできるようになるかもしれない.電話の代わりにメールにすることで,相手の時間の束縛度合いは減る,みたいな.
しかし,それは「会う」「同じ時間を共有する」が減っていくことでもある.「会う」ことの価値は言葉にしづらいから,目的関数にいれづらい.

オンライン飲み会が行われるようになってきた今,日本の友達とオンライン飲み会をする最大のネックが時差である.夜のムードと昼のムード.

最近動画コンテンツが増えてきているけど,私は嫌いだ.飛ばし読みができないから.時間を束縛されているようで,不自由で不快.


知合いで素敵な文章を書くパリ在住の方が,外出禁止令下での自宅軟禁の生活での心境の変化について書いていた.大人になるにつれて獲得してきた気分転換の手法がだんだん効果が薄まっていき,最初の頃目新しくテンションの上がっていた普段しないような手料理なども,テンションが上がらなくなっていき,無気力になっていく,という話.

自分は最初の自宅隔離で懲りたのと,外出禁止のかからなかったスイスに暮らしているので,外に出て働く暮らしをずっと続けることを選択した.ホームオフィスなんて絶対できない.自分は家に居たらだめになる,というのを身体で感じている.子供がいるから,とか誰にでもわかるような説明はできないけれど.
自宅にずっといる.思えばそれは,ドイツにいた頃の生活だ.外部との接触が殆どなく,誰とも話さず,誰にも求められず,日々を生延びる.鬱のようになったが,ドイツ語で医者に説明できる気もせず,日本の精神科医にもかかれず,日本に帰ることもできず,どうしていいかわからないまま続く低温で灰色の毎日.

柵が解かれていくと,生きることが裸になっていく.

生が剥き出しになってきた時に,自発的に色々動きだせる人もいるんだろうし,性的衝動とか「動物的」になる人もいるのかもしれない.けど,低温の鬱状態になってしまうタイプの人も一定数いるんではないだろうか.人間は社会的動物であるってそういうことだろうか.外に出られようと出られまいと,人生は本質的に生まれてから死ぬまでの時間の暇つぶし.社会のために,誰かのために,なんて正当化も,暇つぶしのための言い訳.そんなものどっちだっていい.生きるというのは本質的には意味があるものではなくて,無に帰っていくだけなんだ.だからこそ,できれば生き生きとした時間が多い方がいい.気を紛らせながら,できるだけ楽しみ,いとおしみ味わえるような時間を増やすように,工夫していく.その積み重ねを生と呼ぶんじゃないだろうか.


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