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並木の藪でランチ.

その後隈研吾設計の浅草観光センターを見に.
上から見る仲見世は新鮮.
諸々上手に処理されているなあという印象.
一緒に行った建築関係じゃない人に感想を聞いてみると
キッチュとのこと.
でも,浅草の文化自体が,キッチュなものなのかも.

その後時間があったので,歩いてスカイツリーまで.
展望台に登るのは列が長かったので諦めて,ソラマチのみ.
設計段階では,どうなんだろう,と思ったりもしたけれど,
あれだけ大きなものを人間が作れるということ自体が
もうそれだけで感動的だ.
下で,鋼管直径2.5mくらいか?
地面レベルの平面が三角形なので見えが対称的でなく,不思議な印象.



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先輩が自宅の設計をされたとのことなので,見せて頂きに.

あまりにかっこいい住まいなので,本当にびっくりしてしまいました.
建築家の意図が明確に表現されていながら,
主張しすぎていなくて,とても素敵.
天井高が高く,目線が通っているせいもあってか,
実際の敷地の大きさよりずっと内部は大きく見える.
植物のひとつひとつまで,デザインされていて,
こんな風に店舗のようにかっこよく,住めるものなのかと.
構造も,同じバックグラウンドを幾許か共有しているからかもしれないけれど,
見た目は派手ながら,大切なところはきちんと処理してあって,
流石だなあ,と.

料理上手な先輩がすきやきを作って下さいました.
卵にメレンゲを混ぜるという裏技.
とってもまろやかで感動的な美味しさでした.


本当に,ありがとうございました.



日本の建築作品は,海外に比べて極めてスレンダーなものがあります.

これが何故日本で実現できるか(或いは海外で実現しにくいか)というと,
施工精度や,ゼネコンの質の問題,職人気質,ということも勿論ありますが,
建築のアイディアの作り方の違いも挙げられるように思います.


日本では大抵,建築家とエンジニアが大学で建築学科という括りで共に学びます.
よって,日本の建築家は海外の建築家に比べて,構造や設備に関する基礎素養が高く,
コンセプトの段階で構造(や設備)と協働するのにスムーズです.
そして,単純な構造による構成でコンセプトを作る癖がある人が比較的多いように思います.

単純な構造というのは,一般的な構造,というのとは違います.
時に(しばしば?)特殊な構造を用いて,できる限りまでシンプルにすることによって,
構造要素をぎりぎりまで絞ったりすることが可能となったりします.
その為に,たとえばスペースが所謂既存の気持ちの良さから少々逸脱しても,
そこには目をつぶる,或いはそこに新たな可能性をかける覚悟で挑む訳です.


一方海外の建築家は,室内の空間の質を極めて重視します.
そこをコンセプトを作る時の主題に持ってきてしまうので,
コンスタントに気持ちの良い空間を作り出せる一方で,
想像を超えた空間を作り出そうという方向にはなりにくくなります.

そして,その建築家の想像範囲内の気持ちの良い空間を実現するために
構造はアドホックなものになっていくので,
構造設計者もそれをプロセスの上でも覚悟して余裕を見込みますし,
力の流れがスムーズにならない隠れアクロバティックがあちこちに出てくるので,
構造体自体もぶくぶくしてきてしまいます.


何を評価関数として最適化を図るかということに似ているかもしれません.

#例えば橋梁のように,空間の質が評価関数になり得ないものでは
#構造が優先的に最適化すべき対象となり
#構造的に美しい橋が多く実現されることになります.


確かにヨーロッパの住宅の室内は,所謂気持ちのいい空間が多く,
一般的に空間に対する目も高いように思います.
それでいいじゃないか,と言われたら反論しにくい点ではあります.
が,個人的には,そればかりではつまらないな,
見たことのない価値を見てみたいな,と思います.
経験したことがなく,未だ誰も想像できない空間でも,
面白い空間の質もあるかもしれない,
それはもしかしたら100年後の常識になっているかもしれない.

そして,それを見出す為に構造が関われるなら,なお面白いなと.



少し前になりますが,ETHで行われていたBuchner Bründler Architektenの展覧会に行ってきました.
彼らはバーゼルの若めの建築家で,例えばバーゼル市内のVolta Platzの白い建物(Volta Zentrum)は彼らの作品です.

駆け足だったのですが,展覧会は主に模型が幾つか置かれているものでした.
その模型が新鮮.
そこそこのスケールのものが金属やモルタルで作られているのです.
それも,かなり薄い板や柱もきれいに施工していました.気合満々.
人や植栽がなく,色も限られているこういう模型ですと,
空間の構成がより抽象的に浮かび上がります.
やはり思考が原則的に面でできている人たちなんだなあと.
面としてのフラットスラブを,浮かせることはできないから,仕方なくの柱.
私だけかもしれませんが,私の思考は割と線で,特別な所だけ面,という感じなので,
すごく違っていて面白く思います.
これって,石造の伝統か,木造の伝統か,の違いから来ていたり,するのかなあ.

まさかスタディ模型でモルタルを使っているとは思いませんが,
部材のプロポーションがおろそかにされがちな模型に於いて,
実際のものとしての模型,というのは,かなり存在感がありました.
















個人的に,マイホームドリームはない方である.
ましてや自分で自宅の設計をしたいとも思っていない.

それはそうなんであるが,今回は家のこと.


環境負荷を減らすには,外界と接している表面積を減らすのが効率的である.
つまり,一軒家よりも集合住宅の方が,原則的には有利ということになる.

ここで,一軒家と集合住宅を比較した場合に,失うものは何かを考えてみる.

まずは,窓を開けられる方角の自由度.
一軒家は,いかに隣家が近いとは言え,一応四面に窓をとれる.
が,集合住宅では,ワンフロア,1軒としない限りは,この自由度は達成されない.
つまり,夏に風通しをよくするのは,かなり難しくなるということになる.

防音の問題もあり得る.
お隣さんや上の階の人の騒音が気になる,或いは気を使って暮さねばならない,というのはよくあることだろう.
勿論これは,防音性能を上げることによって回避可能である.

庭が持ちづらい.
多くの人にとっては,せいぜいテラスがいいところ,ということになるだろう.

共用部分の問題.
他人と何かを共有するということは,既に気を使わねばならないということを意味するだろう.



結局,自分ひとり(の家族)だけのもの,というのは,
誰にも何の気兼ねもしなくていい,という意味なんではないだろうか.
マイホームに憧れるというのは,その自由さに憧れる,ということなんだろうと思う.







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