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友人Mが一緒に散歩することを提案してくれて,今日で3日目.夕方に設定すると毎日の予定を邪魔する度合いが強くなるだろうので,朝一緒に出社することにしている.面倒くさいこともあるが,朝早く起きてリズムが作りやすくなるのはよい.ご近所さんの強み.

やったら楽しいだろうこと,ちょっとしたことを,思いつくことはあっても,それを実行する,ましてや実行し続けるのは簡単じゃない.

継続するのに,他人というのはドライブフォースになる.他人に予定の変更を伝えること自体に摩擦があるからだ.

面倒臭く思えることも,やってみると楽しいこともあるものだ.
アトリエのセットアップもそう.


思いついてからやるまでの距離を短くしたら,生きることはもっと豊かにできる.

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今週から規制が少し緩まり、お花屋さんや美容院が再オープンした。やっぱり賑やかさのある方がいい。
それでも東京などに比べれば、日常への影響は少なかったと言えるのではないだろうか。通勤も自転車でできるし、もともとの店の選択肢もそれほどない。逆に言うと、高度化した都会生活が、小都市生活へと強制的に変化させられているとも言える。

私は東京生まれ東京育ちなので、大きな都市にいると安心するのだが、自分にとっての大都市と小都市の違いは、多様性である。いろんな人がいることを許容されていること、選択肢が多いこと。
数の論理で、大都市には質の高いものが集まりやすい。そういう意味ではバーゼルは都市の規模の割に、立地がよいのと物価が高いので、質の高いものが集まりやすいのは利点である。
ただ、何よりも大都市にあってバーゼルに欠落を感じるのは、一人でいる居場所、だ。カフェは大抵みんな連れと入っている。そもそも深夜まで開いているカフェがない。一人で町中に滞在する場所がないのだ。誰にも監視されず、無関心な他人に囲まれている都市の中の居場所。これが一番不足している。

コンパクトな町にはいい点も色々ある。この良さを保ったまま、もう少し我が儘に振舞える場所があれば、より住み心地はよくなるのではないだろうか。

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週末に友人Mとバドミントンをしてみた。拾ったラケットだったのですぐに壊れてしまったのだが、10分くらいでもすぐに息があがる。身体が確実に変化している。
コロナ太りしたので、昨日から朝Mと散歩することにした。誰かが一緒にやってくれると、怠け心が出にくくてよい。朝に人と会うとなると、今のところ起床もできていて、なかなかありがたいお申し出。

外出自粛による50%のテレワークはまだまだ続く。
アトリエ通いが終わってしまったら、ちょっと寂しい気がしてきた。


友人が親切にもやり取りに付合ってくれる.でも,「かわいい下着で「らしさ」を出すことから始めたら?」と言われて,伝わらないなあ,と悲しくなる.彼女が冗談で紛らせてくれようとしている意図はよく伝わっているんだけど,そういう問題じゃない.

私は「女らしく」なりたいんじゃない.「女(男)らしさ」がある,という社会に蔓延する思い込み,そのリフレクションで,自分が傷ついてしまうだけだ.彼ら・彼女らに悪意はなくて,自分たちの思い込みが誰かを傷つけている可能性に,気が付いていないだけなんだというのはよくわかっている.だからこそ,誰も責めることができない.わかって欲しいと伝えることしかできない.そしてそれはなかなか伝わらない.

あなたは優秀だから女らしくなくてもいいんですよ,と分断される.そうじゃない.優秀でも優秀じゃなくても,そんなことに関係なく,女らしくなんかなくっていい.無条件に.というより,「女らしさ」「男らしさ」なんて殆ど社会が作り上げてきた幻影にすぎないと思う.いつか,昔の人はそういうことに拘ってたんだって,と天動説みたいな遺物になるといいと思う.


社会の思い込みなんて無視すればいい,というのはその通り.常にその努力はしているし,昔よりは随分楽になった.結局は,自分は,女や男であるより前に自分である,というだけなんだということ.
でもいつもそんなに器用にはなれる訳じゃない.諦めなくちゃいけないことだってある.社会からの抑圧をいつもはねのけるエネルギーを,いつもかけなくちゃならないということ.CPUの無駄遣い.



彼女は「持ったものを賢く把握して利用してれば生きやすい」と言う.そうなんだろうなあ.それができるなら.





自分では当り前と思っていることも,周りを見渡すとそうでもない,ということはそこそこあるだろう.それでも自分は間違っていない,と思うことも.

私にとって,男らしさ・女らしさを仮定しない,ということはその内の一つだ.
自分の周りには自分に女らしさを押付けてくる人は殆どいなかった.中学・高校は女子高だし,その後の人生でも女性らしさを求められる経験は殆どなかったと思う.それでも,或いはそれ故,女らしさ,という概念がとても苦手だ.

自分の場合,多分特異的なまでに,現実の中で誰かが性別らしさを押付けてくることは殆どない.時々,女性だから得することもあるし,女性だから損することもある.その事実自体に文句を言うつもりもない.女の形をしているだけでそういう風に扱いたくなってしまう人がいる,ということを変えることに労力を費やしたいと思う程,損ばかりしているとも思わない.

ただ厄介なのは,自分の中に内在する声だ.「お前は女として失格なのではないか」

それは,社会の無言の雰囲気の中で生まれたものが内在化されたもの.あからさまな女性差別,女性優遇よりも,そういう雰囲気を作り出す言説には,アレルギー的に反発したくなる.例えば,
「女だもん,お洒落を楽しまなくちゃ」
「女だもん,甘いものが好き」
「男性化している女性は見ていて痛々しい」
そういう言葉は,女を貶めている意図は全然ないのはわかるけれど,「女らしく」あれない人にとっては,お前は女として失格だ,という呪いに響くのだ.

 女はお料理ができる
 女はきれい好き
 女はマルチタスクが得意
 女はお洒落や美容が好き
 女はかわいいものが好き
 女は言語能力が得意で論理的思考が苦手
 女は感情的
 女らしい和やかな振舞い
 女らしい言葉遣い
 女らしい心遣い

感情的,以外に当てはまるものがないような自分は,女からつまはじきにされたように感じてしまう.でも男にもなれない.人間として宙ぶらりんに感じてしまう.
私から見ると男女区別派の友人がいる.彼女は女性は女性らしく振舞った方がいいという言葉を,多分無意識に言う.奇しくも彼女は「自分は「「女性」実績に自信がある」と言っていた.私にはそんな自信は微塵もない.

多分,子供を生んでいればそれだけで,女としてはアガリと思えるのだろう.男には絶対にできないことを成遂げたのだから.でもその免罪符がない状態で,どうやって自分を女と認められるんだろう.

本当は多分,自分は女であると規定する必要なんてないのだ.自分は女であるより前に自分で,子供さえ生まないのなら,女を欲する異性の同意を得たいと思わないなら,女になる必要なんてどこにもない.男性が男になる必要がどこにもないのと同じように.
子供を生んだら女という種別.子供ができたら親という種別.それ以外には要らないじゃないかと思う.

それでもそんな風には割り切れなくて,自分の内側にも,かわいいと思われたい,だとか,自分の性別らしいことは素敵なことなんじゃないか,とか,そういう社会の雰囲気が内在化した声はある.それを助長するような,「女らしさ」を語る言説は,男女どちらからでも,悪い意図が一切なくても,呪いとなって蓄積してしまう.そういう内側からの縛りが,息苦しい.

そんな勝手な息苦しさは自分の中で処理するのがいいんだろう.
でも,こういう息苦しさを感じる人が少しでも減ったらいいなとも思うから,そういう言説を見かけた時は,言葉にして反発する.


自分に女の子が生まれたとして,どうやって育てようか.
お料理や家事を一通りできるようにして,私のような「女らしさ」の呪いから来る生きづらさを感じないようにしてあげるのがいいのか.
でも,そうじゃないよね.本当は「男らしさ」も「女らしさ」もくだらない.そんなことは糞くらえだ.
自分の力で生きていけるだけの生命力と生活能力を,性別に関わらず伝えてあげる.それだけが大事な筈.




香港では中国本土に近しい香港政府が成立を目論んでいる「逃亡犯条例の改定」を巡って,長くデモが続いています.昨日とうとう警官がデモ隊に6発発砲しました.デモの規模は大きく,主催者側の発表によると200万人が参加したそうです.そもそも1997年の香港返還以降,50年間は「一国二制度」の原則を保持する,香港の民主主義は保たれる,という約束が覆されて,中国への同化政策が進められようとしていることへの反発です.

自分たちの町(敢えて国という表現は避けて)を自分たちの手で守ろうという動きには,すごいと思いつつも,あと27年経ったら結局中国と同一化するのだから,時間の問題じゃないの?と思ってしまう自分もいて.でも本当は,その27年間に世界はもっと変わるかもしれなくて,それはひとつひとつの今の動きに拠っているということを意識させられます.歴史はひとりひとりが紡いで行くということ.


もう一つの大きな動きは,ISILの動きに端を発したヨーロッパへの移民流入への反応としてのBrexit.言い換えれば,EUの崩壊の萌芽.イギリス人自体もEUから本当に脱退したいのか不明なまま,落し所がわからず右往左往しています.泣きながら辞任したテリーザ・メイの後を継いだボリス・ジョンソンは,言葉も汚くお世辞にも品位があるとは言えず,差別的な発言の多い人です.先の見えない交渉に誰もがうんざりしている中で,実はイギリスというのは裏表のあるしたたかな国なのではないか,まっすぐでないやり方でぼんやりとEUにほぼ残るような案を選ぶのではないか,というほのかな期待もあります.



学校で歴史を習っている時は,歴史というのはもっと確固としたもののようなイメージがありました.20年前とこんなにも世界は変わるのだということ.
こういう時代(実はいつだってそういう変動の時代なのかもしれません)には,自分をしっかり持っていることが大事ですよね.



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