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小泉今日子(51)と豊原功補(52)が恋愛関係にあると宣言しました.
豊原さんは妻子があり,3年程前に小泉さんとの恋愛が始まったことで
妻子とは別居が始まったそうです.

不倫だからいけない,不倫を堂々と発表する神経がわからない,
といった声があるのは知っています.

不倫がよくない,とされるのは,基本的に,
不倫された側の人が傷つくことが想定されるからです.
けれど,それは家族の中の問題で,
不倫にならなくても,自分の配偶者が別の人に片想いしているだけだって
傷つくものは傷つく訳ですよね.
そうならないようにお互い努力するのが筋でしょう.

彼らの場合は有名人なので,
真実と異なることが執拗に報道されることもあり得る訳で,
それを防ぐ目的で宣言することは,理解できることだと思います.


そういう数々の,言い訳となるような布石があってのことかもしれませんが,
私にとっては,なんだかとても安心する,希望の持てる報道でした.
宣言するキョンキョンかっこいい,とも思いませんが.

彼女の近年のイメージは,酒豪で男っぽくてさばさばしたお姉さん.
自分の意見があって,それに正直に生きて行こうとする人.
女性には好感を持たれるだろうな,友達になれそうだな,という感じ.
こういう風になら,生きていくことは想像できるな,という.
でも,そういう風に生きていった時に,
男の人に女の人として魅力的だと思ってもらえるんだろうか.
お一人さまの未来が確定してしまうんではないだろうか.
と不安になってしまう感じだったのは事実.
(勿論誰だって半分の確率でいつかはお一人さまなのですが.)
それが,同じくらいの年齢の人に,
「天然記念物。おもしろい人。」と言ってもらえて,恋愛感情を持ってもらえる
という事実.そこに現れている希望.

桃井かおりや阿川佐和子の結婚も,勿論近い希望はあったのですが,
彼らは小泉今日子よりもプライベートの顔が知られておらず,
相手からの声も直接は聞けませんでした.

俳優や歌手のようなプロの技術の部分だけでなく,
少しプライベートも切り売りしてきた芸能人だからこそ
見知らぬ少し下の世代の私たちに与えらえる希望.

不倫はいけない,という空気の中では
声高に言われることはないだろうけれど.


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人は何をしたくて旅をするのだろうか.

建築を生業にしていると,
どうしてもそこに行かなければ見られない建築,というのがあるので,
それにかこつけて旅行をすることになりがちである.
しかし,旅の醍醐味はそればかりではないだろう.

ヨーロッパ人には,休暇にいつも同じ場所,海だとか山だとか,に行く人もいる.
リラックスして,エネルギー補給をしたい,というようなことだろう.
私は都会の方が落ち着くので,週末にちょっとパリへ行く,というようなことをする.
しかし,見たことがないものを見たい,食べたい,という気持ちはやっぱりある.


ヨーロッパ文化圏に慣れて,石造りや白い壁の街並みを見ても,驚かなくなった.
ペルーの町は張りぼて感はあれど,意外なまでにヨーロッパだった.
アメリカはどうも苦手なので,足が遠のく.
ロシアはどうだろうか.アルゼンチンやブラジルやメキシコは.
ヨーロッパに似ていたら,残念だな.
インド文化や,日本以外のアジア文化,イスラム文化はまだ遠いので,新鮮味がある.
アフロ文化はきっと,まだまだ新しかろう.
慣れてしまったらどうしよう.

それでも,自然は何かが違う.
スペインの大西洋,ペルーの太平洋,アルプスの山肌,アンデスのありよう,
フランスの平原,白夜,オーロラ,フィンランドの湖,
アイルランドの草原,カンボジアの密林.
言葉にあまりならないけれど,
それらは,そういう風景として,そのまま心の中にしまわれている.
人の時間のスケールを越えているからだろうか.


ずっと昔から,砂砂漠に憧れている.
エンドレスにひろがる不毛の風景.
きっと,とても怖くて,とても魅力的.それは多分,海みたいに.

長いこと憧れているから,
行ってしまうのを少し躊躇ってしまう.




「憶えられないのは,懐かしがらないから.」
というYの言葉は今も有効だろうか.

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昔からそういう傾向はあったが,脳の記憶部位が少しおかしい.
周りにいる人がすごいだけなのかもしれないが,本当に色々なことを憶えられない.
そして,その傾向は,加速しているように感じられる.
感じられるが,いつもそう感じてきたのかもしれない.憶えていない.

しかし最近とみにそう感じるような気がする原因の一つは,
言葉が失われていっているからではないかと思う.

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誰かの顔を思い出そうとする時,その人の写真の顔しか思い出せない.
昔好きだった人や,友達や,家族の顔でさえも.
例えば自分が20歳の頃の,母親の顔を思い出せるか?
そういうのは恐ろしいことだ.
記録されたものしか記憶できない.
記録する時に滑り落ちるもの,書き換えられるもの,は,
削ぎ落とされてなかったことになってしまう.

写真の恐怖は,アウラを奪われること,ではなくて,
現実を書き換えてしまうこと.

でも,写真に撮らなかったら,無かったことになってしまうのかもしれない.

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生きている一秒一秒,全ての時間を記録したい気分だ.
(そうか,だからブログ気分なのかもしれない.)
でも,一秒を記録するには一秒では足りないし,
その記録を振り返っている時間も記録していったら,
抜け出せない合わせ鏡の中に閉じ込められてしまう.

忘れたくないことを,手書きの日記に記している間に,
どんどん書きたいことが溢れてしまって,書ききれなくなってしまう.

そういう砂がどんどん掌から零れ落ちて行くような恐怖.

因みに私は,自分の書いた日記を,殆ど読み返さない.

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母親は今は歳はとったが,もともと記憶力がよく,
記憶がストーリー仕立てになっている人だ.
そのストーリーを聞かされる度に,それが私の中に事実として溜まって行く.
(しかし,多分幸運なことに,どんどん滑り落ちていく.)

動物の古い頭蓋骨に触れながら記憶を話し,その部位が光っては消えていく.

私の,自分の中の記憶は,もっと一瞬の画像であり,ひとかたまりのものだ.
しかしそれは脆く,崩れやすく,すぐに他のもので置き換えられてしまう.

記憶を思い出す度に,記憶の映像が,アイソメトリーになっていく.
画像で説明して整理してしまうからだ.神の視点.

過去を振り返るのは,だからコワイ.
でも,振り返らないのもコワイ.

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私の記憶が映像か音数に頼っている所為か,
記憶の順番というのも,とても苦手だ.
例えば,四谷で花見をした(つい最近Oと話をしたので,ある一枚の映像を思い出した)のと,
海(それは大磯なのか岩井なのか)で花火をしたのと,
どちらが先なのかわからない.
彼女に最初に会ったのがいつで,最後がどこだったかも.

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友人TSの最初の記憶.部屋で反響する音で遊んでいたという,音の記憶.

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私が友人に基本的に正直であり,比較的あけひろげであるのは,
彼らに私の代わりに憶えておいて欲しい,と思っているからであり,
それは,私を,というより,いとおしい事実たちを,である.

でも,彼らの見ているものは,私の見ているものと,違って当り前で,
しかも,どんどん変わっていく.

旅行に行った後に,会食した後に,「たのしかったね」と振り返ると,
まるで本当にたのしかったかのようになる.
多分,たのしかったのだ.きっとそうだ.

それでも時々,ぎょっとすることがある.

「あの時僕らは仲良しだったよね」
うそだよね.
うそ,だよね?
うそ,だっけ??

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もっとひとつひとつを大切にしたら,懐かしんだら,
忘れたくないものたちを,忘れずにいられるんだろうか.

昨日のことを何も覚えていなくなった今日の私は,私と言えるのだろうか.

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最初の,言葉の話に戻ろう.

考える手段の一つである言葉を失うことで,
自分の中を通り過ぎていくものたちが,整理されずにすり抜けていってしまう感じ.
言葉にして,物語にして,残したところで,それがそのままではないのは確かだけれど,
それでも,某か,ではあるような気がする.

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記憶にある限り,スリに遭ったのは2回だけれど,
記録によると,財布をなくしたことがあるらしい.
自分のこととは思えない.

246で統一教会の人に話しかけられた回数も,牡蠣にあたった回数も,
今さっき書こうと思ったことも,
両親や友人が私の為にしてくれた数々のやさしいことも,
泣きたいほどに,どんどん忘れていってしまう.

歴史を感じられる人,自分で物語を語れる人が,羨ましい.

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それでも,まだ,困難はあっても,生きていくことはできる.
少しのエッセンスだけだけれど,身体の中に取り込んでしまうこともできる.

取り込まれたものを書き換えるのは,少し困難だ.

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必然的に,私にはほぼ現在しかない.
常に色々なものが同じ平面に重なって多色になっていて,
それはそれで,美しくもあるのだけれど.
でも,それでは積み重ならないし,減っていってしまう.
もう少し言葉の近くに戻りたい,と思う.

年末モード.

削ぎ落とそうとしても,色々なことが同時にやってくる.
せわしない.


誰かの誘いには,なるべく気軽に乗ろうと思っているが,
そうしていたら,何故だか遺跡づいている昨今.
少し前はコルビュジエづいていたし,その前はピカソづいていた.
そういう,「流れ」のようなものは,あるのかもしれないし,身を任せてみようと思う.

他人と比べて,遺跡に対する憧れ,は薄いタイプである.
更新し続けている都会が好きなのだ.
それでも,失われてしまった生活に対する想像力を.

遺跡と言うと,遥か古代,のようなイメージがあるが,
実際の遺跡はわずか数百年前程度のこともある.
数百年で生活は随分と変わる,ということ.
一方で,築100年以上の建物に住んでいるということ.時間のスケール.
今から見る遺跡.未来から見る遺跡.

中国には派手なプロジェクトが出来たり進行中だったりするようだが,
それらのプロジェクトを写真で見ると,少し遺跡的な感じもする.
遺跡感,というのは,大きさのこと,ではない筈だとも思うけれど.


大きさ・スケイル,というのは,観察する主体に依っている.
大きさ感ではなくて,大きさそのものが.
主体が10分の1に縮んだら,cmの世界がmmの世界になる.
大人になったら世界が小さくなるのは,だから当り前なのかもしれない.
あなたと私が物理的に共有している大きさというのは,どういうことなのだろう.


ディスポジションとコンポジションの違いって何だ?
言葉だけ見ると,反対みたいだけれど.



友人の言葉.
「辛い経験は栄養である.但し,そのままそれを他者に見せると「イタイ人」になってしまう.大事なのは,そこから得られたもの,そこで感じたこと,を見せること.」
保持するということ.


誰かと話しているうちに気が付くことというのは沢山ある.


恐怖.
恐怖に目を向けて,自分が何を怖がっているのかを,言い当てるようにした方がいい.そうすれば,その上で,自分の判断を作り上げることができる.幽霊の正体は枯れ尾花.



相変わらず,思考とも呼べない思いは,花火のようだ.
火薬の香りが残っている内に,少しでも留めておく.



更に続けて断片的なメモ.


選択的夫婦別姓制度について,基本的に賛成である.選択肢が増えることで,辛い思いをしている人が減るならいいことだし,家という形を保持する為には家族は同じ姓を持たねばならない,と考える人は同姓にすればいいだけだ.それはそうとして,この話題では必ず,女性が抑圧されていることになっている.そこに私は違和感を感じる.現状の同姓を強制する制度であっても,男女平等だろう.現実的に殆どのケースで女性が姓を変えているのだとしても,その現実を変えていけば抑圧ではなくなるのではないか.選択的夫婦別姓制度は,男女不平等の問題ではなく,名前,特に姓というものがある人間にとって何なのか,それは一生の間で一貫しているべきものなのか,ということが問題なんではないだろうか.

困っているという声は殆ど聞いたことがないが,名前というアイデンティティの強制という意味では,子供の姓が親と同じであり,名を親が強制する,というのは,子供の抑圧にはあたらないのか.勿論生まれたての赤ん坊に自分の名前をつける能力はないだろうが,例えば成人時に自分の姓名を自分で選び取る,ということだってできてもいい筈だ.選択的親子別姓制度.古くは元服制度というものもあった訳だし,名前が一生の間で変わる,という人生も十分にあり得るのだ.或いは,本名が複数あって何故いけないんだろう.ペンネームみたいに.
ただ,親が名前をつけることが抑圧である,といった論調は今のところ聞かない.差別も抑圧も,被差別者・被抑圧者が意識して,初めて生れるものだから.

鈴木均さんと山中京子さんの息子が田中勘三郎さんである,という家庭を一般的に想定するとどうか.ここで一つの疑問に辿り着く.現在の文化では,姓というのは基本的にその人の血筋の痕跡であり,家族を表していることは間違いないだろう.鈴木均さんは,鈴木さんちの均くん,な訳である.これが崩壊するとしたら,そもそも姓なんて要らないんじゃないのか.
そう考えてくると,なんだか今ある文化を失ってしまうのが惜しいような気がしてくる.それが例えほんの150年程のことであったとしても.ちょっと窮屈でも,ある程度姓は家族と関連付けられている方が,その不便さの中に豊かさあるんではないだろうか,というような.
まあ,あまりラディカルになりすぎず,選択的夫婦別姓制度程度にしておけば.


衆議院議員で,秘書に暴言暴行を働いた人がバッシングされている.実際の音声がネット上に流れ(秘書の人,録音してたんだなあ)それを聞くと,うわぁとなる.
しかしながら,彼女の本分である政治家としての仕事を全うしていた場合,どの程度糾弾されるべきことなのであろうか.ハラスメントはよくない.それは確かだ.しかも秘書から刺されるようでは政治家としての力量も疑わしい.よって今回は当てはまらないのだが,秘書が刺さない程度の人望が保てているのであれば,あまりに聖人君主を求めすぎるのも息苦しいようにも思う.それよりも,憲法を守らない首相とか,自衛隊を私物化する大臣とか,そちらの方が,政治家の本文として問題がある.私は政治家に,必ずしも私生活の上で完璧な人格者であることを求めてはいないようだ.というより,自らを省みた時に,どこまでも埃の出ない人なんているのか.それぞれ埃を身に纏いながら,それぞれの分野で力量を発揮していけるのがいい社会ではないのか.これだけ,普通に考えたら理解しがたいような政治家ばかりが目立つ中で,少々人格崩壊している人と,どちらが政治を任せるのに値するのかは,明らかでないように思う.政治家だけに清廉潔白を求めるなら,給料を跳ね上げなくてはならないだろう.

彼女について,病気だよ,という表現がある.境界性人格障害なのでは,とか.そうやって,「健全な」自分とは違う部類の人間なんだ,とレッテルを貼って排除すると,人は安心する.けれど,部下が失敗をしてつい怒鳴ってしまう,程度のことは,誰にでも起こりうる,或いは少なくとも,その程度のことで社会から排除していたら,社会が成り立たなくなってしまうのではないだろうか.誰かを排除すればするほど「健全」の枠は狭まって行って,いつかは自分が枠の外に出てしまうだろう.
どんな人の中にも,自分の欠片を見ることはできる,と信じたい.それがとても悲しい欠片であるとしても.




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