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スイスはヨーロッパではありますが,EUではありません.
建築においても,ヨーロッパ各国(イギリスを含め)はコードを統一する(Eurocode)動きがあるのに対して,
スイスは頑なに独自のコード(SIA)を守っています.

スイスでは,計算書を作ることは義務ではありません.
ドイツでは,計算書を型どおりに作り,別のエンジニア(Proof Engineer)に確認してもらうことが義務となっています.


今やっているのは,スイス国内で作られた建造物を,ドイツの会社に売却することになったため,
ドイツのコードによる計算書を作るという仕事.
正直,既に建ってしまっているものなので,デザインの喜び,のようなものは感じられないのですが,
そもそも,私が今ここで働いている目的の一つは,
ヨーロッパで仕事をできる手順を知りスキルを身につける,ことにあるので,
そういった意味では,正にマッチした仕事とも言えます.

社内のエンジニアは普段計算書を作る習性がありませんし,
DINからEurocodeに変わっている端境期ということもあって,
なかなか助力が得られず,苦しい仕事ですが,
これも自分の武器を磨く一つの手順ということで,頑張ろうと思います.




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以前にも書いたけれど,スイスでは計算書を書くという習慣がないが,
図面と,仮定荷重やどのような想定をしたかの書類(Nutzungvereinbarungという)は書く.


それはそうと,計算書の話.

手書きの計算書だと,計算の跡がきちんとわかる.
計算の過程で,式や説明を自然に書いてしまうからだ.
さらに,手書きの図面がコンピュータの図面よりも美しく見えるように,
手書きの計算書というのも,人目を惹くものでもある.
コンピュータの入出力だけのものだと,まず読み込む気にもならない.

手書きにも欠点はある.
手書きは,時間がかかるし,修正があるとかなり手間で,しかもミスをしやすい.
さらに,外国人(母国語の人)の手書きのアルファベットは,正直かなり読みづらい.
多分,日本人の書く日本語も,外国人からすると,崩れすぎていて読めなかったりするだろう.
江戸時代などの筆跡を,今の日本人が相当読めないのと同じことだろうと思う.
さらに,コピーというのは大抵質が十分でなくて,汚いものだ.


上司の個人的な趣味かもしれないが,今は手書きを推奨されている.
私は,しばしば出てくる計算についてエクセルシートを作っておくのが好きなので,
それを一々手書きするのは,少々面倒だな,と思う.
今,たまたま3つの計算書を書く仕事をしているのだけれど,
手書きだとコンピュータ出力の3倍くらい時間がかかる気がする.

見栄え以外の点で,手書きの方が優れているのは,
毎回自分がなんの計算をしているのか,考える必要があることだろう.

逆に,そこをプログラムしておくことは,その思考時間を省略することができるとも言える.
自作のエクセル(或いは一般的に自作のプログラム)のよい点は,
振り返ってみたくなった時に,ブラックボックスでないので,簡単に参照できるということだ.
エクセルを開ける環境にある限りは,手書きと同じように思考の跡を辿れるのだ.

実用ということを考えれば,
毎回本を開いて一から考えるよりも,
ある程度よく使う部分を公式化しておくのは,便利である.

更なる利点として,一度プログラムを書いてしまえば,使うのはそれ程手間ではないので,
比較的複雑な計算を,手軽にできる,つまり簡単にそこそこ精度よく検討できる,ということも挙げられる.
つまり,浮いた時間を,スタディに費やせるということだ.

ある断面でNGとなった場合,どの位ならぎりぎりなのか,ということを,パラメトリックにスタディできる.

簡単なものなら,必要最少量を陽な式でも書けるが,
少しややこしい式の場合には,パラメトリックな試行錯誤の方が,手軽である.

ただ,最終的にエクセルシートを印刷してしまった場合,
特に昔に作ったシートだったりすると,偶に読み解けないことなども出てくるので,
最初に面倒でも懇切丁寧な説明付きのエクセルを作ったりする,方がよい.
(そして,それは往々にしてとても面倒である.)



常々なんとなく思っていることなのだけれど,
エンジニアとしては,理論や実務的知識をきちんと抑えていることは大切だし必要だ.
それらによって,どんな所に問題が起こり得るかを予見し,早い段階で検討を重ねるのが,
よいエンジニアの要件の一つだろう.

けれど,そればかりに邁進するのは,片手落ちのようにも思う.
高度な知識を持っていて,それで精度よく現実を近似できるとしても,
その結果出来上がっているものが前と変わり映えがしないなら,
あまり意味がないような気がする.

例えば,新しい理論やコンピュータ技術の進歩で,
以前より高い精度で解析ができるようになったとしたら,
せめて,ぎりぎりの断面まで持っていくとか
(それはつまり不要だと思われる安全率を落とすということでもある)
或いは,それを発想の源として今までにない世界を見出すとか,しないと
21世紀も1割以上過ぎた今を生きる我々としては,恥ずかしいことなのではないだろうか.



そういう意味では,近年,私が学生の頃など笑い話だと思われていた
1キロも超えるような高さの超超高層が実現している,ということは,
ある意味で正しい道筋なのだろう.

スカイツリーの形状が不格好であるかどうかはともかくとして,
現在の技術の粋を集め,
今の東京に,あれだけのものを作る力があるということを,
確実なモノとして社会で共有し,
沢山の人が,今まで到達したことのない高さに,立つことができるようにしたということ,
さらに,それが歴史として確実に残って行くということ,
それ自体が,もう,感動なのだろうな,と思う.


昨今のドラマには沢山スカイツリーが出てくるし,
友人の写真でも時たま目にする.

次回帰国したら,是非登ってみて,体験を共有しておきたい.





こういう言葉を使うのはなんだか畏れ多いのですが,一応,構造計算者ではない構造家,ということで.


スイスと言えば,アルプス.小さい国の中に,屹立った山が沢山ある国です.
アルプスに行くと,涙ぐましいまでに,厳しい条件のところに美しい橋がかけられています.
そういう文化的背景もあってか,スイスの構造設計技術・技能はかなり高いレベルにあります.
特に,コンクリートに関しては,日本よりもはるかに繊細な検討を行い,
結果として,とても美しいコンクリートが打設されています.

さらに,設計に関する「法律」がなく,
規準も,日本の規準のように,取り敢えずそのとおりにしておけば,一応安全に設計はできる,
という訳でもないので,
構造設計者は,自分の頭でその都度力学に立ち戻って思考することが要求されます.

これを日々繰り返していると,当然力学の素養は磨かれていくことになります.


ただ,難点もあります.
技術的な知識を深めることに注力すると,それだけになってしまいがちだということです.
建築家の言う無理難題を,技術的に実現することについ躍起になってしまい
それ以上の建築的課題には立ち入る余力が残っていない人も結構見かけます.


個人的な志向ですが,
技術は何かのためのものであって欲しいし,
その技術を磨いた結果できるものが同じかそれ以下では,面白くないと思います.
ただ,いつどんなボールが飛んでくるかわからないので,
日々鍛錬を続けておく他はない,ということも一方で事実なので,
バランスよく,という当たり前の結論にしかならない訳ですが.




建築物を建てる手順というのは,国によって違います.
建設自体の手順も文化によって異なりますが,ここでは設計のプロセスについて話します.

ドイツとスイスとは同じドイツ語圏のお隣の国ですが,システムが全く違っています.

ドイツでは,分厚い構造計算書(フォーマットは概ね決まっている)が必要で,
しかも必ずPrufingenieurという第三者がチェックします.
このPrufingenieurになるには,資格が必要です.
彼らが理解してくれないものは,建てることができませんし,
たまに,彼らのほうから設計を変更するように指示があったりします.
つまり,高度な設計は,(特に無名の場合?)なかなか実現しづらい可能性も含んでいます.
ドイツでは実現できた建物がないので,これより先のことは今はまだわかりません.


一方スイスでは,一切構造計算に関するチェックはなく,ただサイン一発,
全ての責任を構造設計者が負う,というだけのシステムです.
計算書を作る必要もありません.
建築家になるにも,構造設計者になるにも,資格は要りませんし,
そもそも,構造計算に関する「法規」もなく「規準」があるだけです.

これはこれで,クリアなシステムですし,自分の責任で挑戦的なことも,でき得ます.

ただ,個人的には,やはり構造計算書は作った方がいいのでは,と思っています.
人間ですから(特に自分はですが)間違えもしますし,
計算書を作っている段階で気づくこともあります.
無駄にフォーマットを揃えたり,プログラムの全出力をしたりすることに意味は見出せませんが,
時間が経って,忘れてしまうことも多いですし,
計算書を作るという一見事務的なプロセスには,意味があるように思います.
雇われの身ですと,勝手に時間を使って計算書を作ることに問題がない訳ではないのですが.


因みに日本では,姉歯事件(構造計算書偽造事件)の煽りで
計算書のフォーマット化など随分厳しくなった筈です.
これ自体は私は大いに疑問を持っていて,ずるをする人を見逃さないことが目的になっていますが,
そもそも計算書というのは,ミスを防ぐ自分の為,という以外の本来の目的は,
第三者に何を考慮して設計を行ったかをわかりやすく示す為のものの筈です.
結局,責任の所在がはっきりしていない(国なのか設計者なのか審査機関なのか)ため,
適当にお茶を濁しているだけのように思えます.



引き続き,業者さんとのやり取りをしております.

何を当たり前とするか,というのは社会によって規定されているので,
日本で培われた自分の常識が,別の社会での常識ではないというのはままあることです.
日常生活に於いてもそれは起こるのですが,
仕事に於いても当然のことながら起こります.

想像ですが,自動車業界や製薬業界などの製品製造業で,国際的な流通がある場合,
それなりに常識は世界の常識になっていたりもするのかな,と思いますが,
こと建設に関しては,不動産というだけあって,社会からの規定がかなり強くかかっています.

前の記事にも書きましたが,
ヨーロッパでは日本でのようなプライドに裏打ちされた質の高い無料サービスはあまり期待できません.
仕事というのは対価があってのものなので,
サービスするから仕事を受注させてほしい,というような情緒的な話は通用しないのです.
一応,サービスが0という訳ではないのですが,
日本の常識をひきずっていると,その質の低さに愕然とすることもしばしばです.

図面を渡して,このようにやって欲しい,と指示して,
できたと言うので見に行くと,
頼んだこととは全く別のものができあがっている.
しかも,それに関する事前の連絡はなし.

或いは,緊急にこの情報が必要なので,教えて欲しい,と連絡しても,
明日返答します,が毎日続く.
しかも,毎日かけても電話は繋がらない.
一週間待って返ってくる答えは,
質問と全く違うことに対して,こちらからの情報が不足しているので考慮できません.
とのこと.
相手の理解が間違えているということも,電話が通じないので指摘できません.


こういう事態が起こると,つい怒ってしまうのですが,
ヨーロッパの人たちは,あまり怒らず,にこにこと忍耐強く待ちます.
こんな風なので,設計のクオリティを上げきることがなかなか難しく,
逆に言えば,日本人の設計の質が国際競争力を持っている理由でもあります.


しかしまあ,怒った所で彼らが仕事をしてくれる訳でもなく,
寧ろお互いに気分よく仕事をすることが難しくなるだけなので,
(何しろ,この社会での常識は,彼らの方にあるので.)
怒って得になることはありません.

稀に,非常に協力的な会社もあるのですが,
そういう人たちに出会うと,絶対にこの人たちと仕事をしたい!と思ってしまったりします.


一旦契約書が交わされてしまえば,責任が発生してくるので,
それなりにきちんと仕事してくれるのかもしれません.
そうであることを期待したいところです.




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